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奈良旅行(8)・・・海竜王寺

海竜王寺.b海竜王寺a
(人物を取り除いたトリミングのせいで写真では山門の幅が狭くなっています)
海龍王寺を初めて訪ねたのは、学生時代。今回が二度目です。
とても来たかった寺社の一つでした。

今回は、ここの十一面観音立像が特別公開される期間でしたので、
とても楽しみだったわたくし。
こちらが、その海龍王寺の十一面観音立像。


p1_p01.jpg


後ほどご紹介したいと思っている法華寺の十一面観音立像の魅力とは
また違った魅力がありますね。

ここも、法華寺(尼寺)同様、
光明皇后が創建されたところと言われています。

奈良博物館で開催中の「大遣唐使展」ともかぶりますが、
遣唐使として20年唐にいて帰国した玄が初代住持となっているんですね。
何かと歴史上お騒がせの僧でしたけれど、
そういった縁から遣唐使の航海安全祈願をするお寺でもありました。
本当に、それだけなんでしょうか。


海竜王寺3

海龍王寺の境内は、とても静かでした。


こちらが、この海龍王寺の五重の小塔です。

海竜王寺の五十の小塔

当初から屋内に安置されていたために、
保存状態はとてもよろしいです。

ちなみに、
元興寺の五重の小塔(再現)が、こちら。

250px-Gango-ji_pagoda.jpg

こちらも国宝とのことですが、いまはない実物を再現した模型のようです。
それでも、歴史的には貴重なものとされているんですね。


実は、この海龍王寺で気に入っているのが、
こうした国宝の五重の小塔などではなく、
所蔵の仏像たちは、無論気に入っているのですけれど、
実は、この塀なんです、

海竜王寺2

見飽きないですね。
この築地塀に囲まれた参道が、
昔からとても好きでした。
また季節を変えて訪れたいなァと思います。

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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

奈良旅行(7)・・・元興寺(5)「鬼の寺」の異称の歴史的背景に思いを馳せる

★このページは、元興寺のブログ記事が長くなってしまいましたので、
お読みいただくご負担を減らすべく分けさせていただきました。


元興寺の庭にあった鬼


元興寺の鬼伝説について多くの人が知っている、
という前提でもあるのでしょうか。そうは思えなかったわたくしですが、
何の説明もなく、このようなモノが置かれていました。


ここのお寺が「鬼の寺」と呼ばれる理由、
説明するのが難しいからではないのか・・・・と思われましたが、それ以上に、
説明してはいけないものとされているからでは・・・と。


元興寺の鬼2


誰が作ったものなのか不明なれど、
誰も来ないようなところでひっそりと、
こうしたあられもない姿で、
天を仰いだままの姿で固定された鬼。


眺めているうちに、歴史の闇の中で物言えぬまま
葬り去られたものたちの声なき声を聞いてみたい衝動に駆られてしまいました。


元興寺の境内には、役の行者の像もあり、
妙な符号を感じさせられます。


★元興寺は寺の名よりも鬼の代名詞として浸透していたという問題。

元興寺というと、「ガゴゼ」というのを見聞きます。
ネットでお調べいただいても出てきますが、これは、昔、
元興寺にいた鬼のことをいうのだそうで、
そこから、「ガゴジ」(元興寺)という名になったとのこと。

そこから後の世に、鬼を退治した神様=「ガゴゼ」(元興神)

といった説明も生まれたようですが、
後世の付会でしょう。

この元興寺の鬼伝説は「日本霊異記」の以下の話が原型とされています。
道場法師は雷の申し子として誕生し、大力となって朝廷の強力に勝ち、
元興寺の鬼を退治した。寺田の引水に能力を発揮して功績を上げ、
後に立派な法師となったという。

元興寺では、鬼を退治したその道場法師を神格化して、
「八雷神(やおいかづちのかみ)」とか
「元興神」と称すそうな。

説明では、農耕を助け、鬼を退治し、佛法を興隆した鬼神を象徴とのこと。
これもまた、どこかで見聞きしたかのような印象を持ちますけれど、
いかに習合流行りの時代だったとはいえ、
何かちぐはぐな感じがします。


古来、イカズチというのは、
対馬あたりにいた亀卜の神という説もあります。

奈良時代に朝廷で辣腕をふるった藤原氏ですが、それが、
この新興勢力の中臣・藤原のルーツと関わるという説もあります。


元興寺の鬼2


それにしても、この仰向けになった鬼が眺めているのは何なのか。
空を見上げたいるとしたら、その空の中に何を見ているのか。
仏教の「空」とも通じますが、
そのような悟りを得た鬼ならば、「鬼の寺」などと呼ばれて、
人々に恐れられることもなかったのではないか。

ちなみに、「ガンゴウジ」=幽霊、死霊という説もあります。

聖徳太子や弘法太子とも所縁の深いこの寺で、
どうしてこのような話が伝承されているのか、やはり、関心が強まるばかり。


蘇我家滅亡の折りに、
中大兄皇子らは、ここに陣を置いたとされる話も不思議でした。

蘇我家にとって大事な寺に、敵は陣を置いたわけです。
もっとも、当時において寺院というのは、軍事的にも転用できる所でしたから、
この古代史において重要なお寺を最初に抑えるというのは、
戦略上、当然だったのかもしれません。
だからこそ、思うのです。
どうして蘇我はここをちゃんと防御しなかったのかと。
やはり、謎ですね。

元興寺についてはいろいろと思うこと考えさせられることが、
実は、この後に尋ねた法隆寺同様に、多々ありますけれど、
ここのブログではこのくらいにしたいと思います。

日本の古代の姿を知りたいという思いは、
まさに、これからの日本を思うが故だということ、
あらためてご理解いただければ幸いです。



元興寺の歴史や所蔵の仏像等についての解説は、
★ご参考までに ⇒ 元興寺公式サイトをご覧いただければと思います。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

奈良旅行(7)・・・元興寺(4)無数の石仏と「かえる石」

奈良旅行(2010.5月) 237


元興寺の境内を、ゆっくり歩いてみました。
こうした情景を目にすると、
京都の化野の念仏寺を思い起こしてしまいますが、
石仏がたくさんあるお寺はあちらこちらにあって、
そうめずらしくありませんが、

ここ元興寺ではどのような謂れがあって、
こうした石仏があるのでしょう。



奈良旅行(2010.5月) 254


元興寺の極楽坊(国宝)に安置されているのは、
地蔵尊です。


奈良旅行(2010.5月) 257


元興寺の地蔵会では、有縁無縁一切の霊を追善するそうですが、
元興寺に何の関係もない霊を供養しているとも思えない。

無縁仏を供養する形ながら、
歴史から消された人物たちの霊をもまた、供養しているのではないか、
そう思われてならなかったです。

というのも、この元興寺(飛鳥寺)はもともと、
蘇我氏が建立したものだからで、

その蘇我氏本家は、ご承知のように、
比肩すべきものがないほど聡明だったという記録もあるほどの、
俊才入鹿(いるか)の代に、その入鹿の「無謀」と「愚かさ」によって、
聖徳太子の遺族を全員死に追いやってしまっただけではなく、
自らもまた暗殺によって蘇我宗家、つまり本家一族もまた、
滅ぼされているからです。その宗家の蘇我縁の者たちはどこで、
供養されているのかと。



奈良旅行(2010.5月) 249


境内の奥の方に、ひっそりと石舞台がありました。
蘇我氏と関係がある石舞台だと説明してあったように記憶しますが、
委細は、よくわかりません。


奈良旅行(2010.5月) 261


奈良旅行(2010.5月) 264


これは、「かえる石」と呼ばれています。

7月7日に「かえる石供養」も開催されているそうですが、
説明によれば、ガマガエルはもともと水の精と考えられていて、
雨をふらすために月にいるのだと信じられていたとのこと。

当時の、雨乞いと関係があるのかもしれません。
雨乞いは、稲作にとって大事なものでしたから。

こうしたものが元興寺にあるということ、
興味深いですね。古来からの神祇による雨乞いの儀式は、
朝廷における大事な儀式だったと思われます。
そこに、新しい神である「仏」の登場となれば、
その仏による雨乞いが威力が問われるのは当然かもしれません。
飛鳥寺において崇仏派は雨乞いを祈願する必要に迫られ、
中国古来の信仰を知って導入したその名残かなと。


宝物殿でゆっくり見学しいる娘と別れ、
いろいろのことを思案しながら古代に思いを巡らせ、
一人ゆっくり境内を歩き回っているうちに、
ついに出会いました。元興寺の鬼に。
後ほど、その鬼をご紹介したいと思います。





★ご参考までに ⇒ 元興寺公式サイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

奈良旅行(7)・・・元興寺(3)美しい行基葺古瓦

元興寺に行かれたなら、おススメなのは、やはり、こちらです。


行基葺古瓦


この瓦屋根の美しさはどうでしょう!
これが、行基葺古瓦と言われているものなんですね。
蘇我馬子が建立した飛鳥寺の瓦の一部が、
ここに使われているのです。

見上げた時、その美しさにため息が漏れました。

考古学の専門家の書かれたこの寺に関する本を読むと、
飛鳥寺から出土した創建時の瓦の中に、
扶余(ふよ)時代の百済の文様と酷似したものがあるそうで、
このことは、百済から寺造りの専門家の工人たちが渡来したという、
日本書紀の話を証明するものになっているとのこと。
しかしながら、この飛鳥寺の伽藍配置は、
百済では見られないものなのだそうです。

そうすると、このお寺のモデルはどこに求められるのでしょう。
当時の日本に、独自にお寺を設計する技術などなかったわけですから。
飛鳥寺から出土した瓦の中に、赤褐色の瓦がたくさんあったそうで、
この色は、赤焼くきと言われるものですが、
高句麗の瓦に多く見られるとのことですから、
そうなると、飛鳥寺って、百済ではなく、
高句麗のお寺の姿を模したということになるのでは?



奈良旅行(2010.5月) 270


飛鳥寺(法興寺)は、平城遷都に伴って移建されたと言われていますが、
飛鳥寺は寺の移転にかなり抵抗し拒否したようです。
このため、元興寺を名乗る寺が二つになりました。

飛鳥の寺は「本元興寺」と呼ばれ、
平城京の寺の方が「元興寺」(新元興寺)、
そう呼ばれて区別され並存したといわれています。


★この移建の問題点

移転といいながら、実は双方の伽藍はまったくスタイルが異なり、
移転先での新しい元興寺の主要の金堂本尊は、弥勒如来坐像、
講堂本尊は薬師如来坐像となり、
その背後に薬師仏を配置。

日本仏教の元を興したという由緒ある元興寺の釈迦如来(飛鳥大仏)は、
移転されずに本元興寺に遺されたということです。

ちょっと分かりにくいですね。
整理しておくと、元興寺は、以下のように名称が変わります。

飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と名称

ちなみに、
飛鳥の都で「飛鳥4寺」と称された大寺は、

飛鳥寺(法興寺)、
川原寺(=弘福寺)、
大官大寺(大安寺)、
薬師寺ですが、

遷都された後の「飛鳥4寺」となったのは、

元興寺、
興福寺(山階寺)、
大官大寺、
薬師寺です。

つまり、
飛鳥寺は移転に抵抗し、川原寺は実は移転しなかった。

なのに、移転したかのような体裁となったのは、
川原寺が「弘福寺」と呼ばれていたので、
あの「興福寺」がそれだろうと誤解された。

ご本尊が移らないのに、
名前だけは移転した「元興寺」、
これら二つのお寺のご本尊のその後はどうなったのでしょう。
ご本尊あってのお寺です。


奈良旅行(2010.5月) 271


なのに、
瓦の一部を移転して「移転した」ことにしたとするなら、
実におかしな話ですね。

梅原猛氏の「隠された十字架」によれば、
藤原不比等の遠大な陰謀ということになりますけれど、
歴史というのは、
一人の人物の思惑で塗り替えられようとしても、
どこかに必ず真実の一端が見え隠れするものだと思います。



東門の瓦屋根


元興寺は、平城京遷都に伴って710年(和銅三年)に移転。
いわゆる藤原京から更に都を移したわけですが、
復元された朱雀門からして、
当時の都の壮大さは大変なものがあります。

けれど、政治の中心となる都作りは、
このときの平城京の造営の後も絶えなくて、
当時の日本は、ご承知のように、驚くほど、
都(首都)を変えてくことになります。
財政的に、想像を絶するものがあります。


この頃の日本史って、歴史の教科書だけを読んでいたら
まったくわからないですね。

蘇我氏を滅ぼした藤原の世になって、
蘇我氏が建立し官寺のようになっていた蘇我系のお寺飛鳥寺を移し、
名前を元興寺とし、興福寺や東大寺同様、都の守護にあたらせたというのも、
ちょっと考えてみればヘンですよね。
蘇我を滅ぼしたのは、藤原の祖的人物だったわけですから。
古代史の学説が色あせるほど、いま、読まれている古代史の本は、
関祐二氏の藤原陰謀説ですけれど、こうした疑問を思う時、
なかなか興味深いものがあります。

というわけで、

元興寺はの別名は、鬼の寺となったのか。
境内を歩いて回っていたら、鬼を発見しましたので、
次のブログでご紹介したいと思います。



★このページは「元興寺」の冒頭ページがかなり長いものになってしまったので、
お読みいただくご負担を減らすため、いくつかに分けさせていただきました。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

奈良旅行(7)・・・元興寺(2)二つの聖徳太子立像

★このページは、前ページがかなり長いものになってしまったので、
お読みいただくご負担を減らすためいくつかに分けさせていただいたものです。


聖徳太子立像(16歳の太子像と2歳の太子像など)は、この元興寺にあるので、
法隆時に行く前に是非こちらに立ち寄りたかったわたくし。


kouyou.jpg nisaizou.jpg
(16歳の太子と2歳の太子像です。撮影禁止のため、絵葉書を写真で撮りました)


13世紀に造立され聖徳太子立像ですが、
左は「太子十六才孝養像」と呼ばれています。

弘法大師坐像も造立され、双方合わせて、以来、ここも、
都の守護寺というよりも聖徳太子と弘法大師に係わる寺院となりますが、
そもそも、この元奥寺の前身である飛鳥寺が、
官寺という性格を持ちながら、なぜ、
いかに時の有力な仏教推進派の豪族とはいえ、
蘇我氏という一族によって建立されることになったのか。
つまり、朝廷は建立に関わらなかった気配があるので、
ずっと、不思議に思っていましたけれど、
京都で神社巡りをしているときに、はたと、思い当りました。

思えば、当然なんですよね。
いかに、推古天皇が蘇我系の帝であったとしても、
当時の帝が「外国の宗教」である仏教の仏を拝むなど無理だったろうと。
だからこそ、百済から倭国の朝廷に献上された寺造りの集団を、
朝廷が受け入れてお寺を建立することは出来なかった。
だから、蘇我氏が朝廷に根性された工人たちを「預かり」、
一豪族という立場で寺造りを始めたのだと。

飛鳥の飛鳥寺、つまり、元興寺(本元興寺)というのは、
日本古来の神祇を祀るのが帝の本文だった時代ゆえに、
朝廷ではなく蘇我氏が建立することになったんだなあと。
そう思い至った次第でした。


ところで、元興寺の後にゆっくり尋ねた法隆寺、
そこが聖徳太子の怨霊を封じ込めるために作られたとするあの説、
梅原猛氏の「隠された十字架」がベストセラーになった当初、
衝撃をあたえらてたはずの古代史学会ながら、その後も、
学会筋からは聖徳太子怨霊説の話はあまり聞かれないままでしたが、
最近では、そもそも聖徳太子は存在しなかったという説が、
学会の中からも出てきて波紋を呼んでいます。
読んでみましたが、はたして、どうなんでしょう。


そのヘンの話は、他日に譲ることにし、ここでは、
聖徳太子が亡くなってからの太子信仰の話に触れたいと思います。
以下、関心のない方はスルーしてくださいませ。


元興寺の縁起書によれば、以下の通り。


太子の死後間もないころから、
その偉人的な性格が誇張され、太子に対する尊崇の念が高まり、
追慕の念が信仰へと昇華されたものである。



通り一遍の説明の後で、以下のようにあります。
これらは太子のことを知る上での重要資料だろうと思われましたので、
ご参考までに、引用させていただきますね。

『上宮聖徳法王帝説』、
『日本書紀』、
『聖徳太子伝暦』
『日本往生極楽記』
『大日本国法華験記』に見られるように、

太子は日本における最初の仏教者、祖師であると意識され、
佛のように礼拝される対象となっていったのである。 すなわち、

「太子伝」という物語の普及、
「太子絵伝」という仏教美術の展開、
「太子像」という一種の仏像であり、祖師像を生んだのである。

また、各寺院や宗門は

聖武天皇、
伝教大師最澄、
弘法大師空海、
理源大師聖宝の太子後身説、
太子が観音の化身であり、
我が国最初の往生人とし、

あるいは、

達磨の化身、
阿弥陀の化身、
法華経弘通の祖師、

とみて、太子を立宗の根本に位置付け、
競って自宗派との関係をうたい、
由緒寺院は創建の基を太子として
権威化を図っているのである。


つまり、聖徳太子の座像や立像は、
それがいつ誰によって作られたものであろうと、すでに、
仏像と同等のものになってしまったということ、
このことは、銘記しておきたいなあと思いました。
細かいことはスルーされた方にも、このこと、
ちょっと記憶に留めていただければ幸いです。

テーマ : 歴史
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