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広隆寺「聖徳太子御火焚祭」(1)・・・・聖徳太子の命日の謎

ブログ1
(2012年11月22日撮影)

ずっと見に行きたいと思っていた広隆寺の御火焚祭。
一昨年は、当日引っ越しと重なり断念せざるを得ず、
昨年の2012年11月22日、やっと行って参りました。

★ちなみに、22日というのは太子の月忌命日(がっきめいにち)、
つまり月命日にあたります。が、日本書紀では太子が亡くなった日を、
推古29年2月5日と記しています。

「二十九年の春二月(はるきさらぎ)の己丑(つちのとのうし)の
 朔癸巳(ついたちみづのとのみのひ)に、夜半(よなか)に、
 厩戸豊聡耳皇子命(うまやどのとよとみみのみこと=太子のこと)、
 斑鳩宮(いかるがのみや)に薨(かむさ)りましぬ(=亡くなった)」

なので、22日というのは別の文献によるものになります。
それは、「上宮法皇聖徳法皇帝説」という文献にあるものなのですが、
わたくしはまだこの本の実物をこの目で読んではおりませんので、
イマイチ、こうしてご紹介するのが躊躇われていますけれど、

それはそれとして、不可解なのは、
法隆寺が発行している本では、聖徳太子の薨去を、
推古30年(622年)2月22日と書いており、しかも、
日本書記にそう記してあるかのような曖昧な説明をしていることです。

「推古三十年(六二二)二月二十ニ日、聖徳太子薨去について、
 多くの人々の悲しみや落胆ぶりが「日本書紀」に記されている」
(「法隆寺」小学館編集 法隆寺発行)

これでは、日本書紀に太子の亡くなった日が2月22日と書いてある、
そう読めます。2月22日説を取るなら、どうしてその縁起を記さないのか。
こうした点、自寺を聖徳太子創建と語っている法隆寺としては、
どうなんでしょう。不可解です。

これほどの有名人なのに、その亡くなった日のみならず、
生まれた日さえはっきりしない。
こうしてところからして聖徳太子には謎が尽きないわけですけれど。


御火焚祭1


さて、広隆寺の火祭り・・・

実際に見学して感じたことは、
お祭りの「祭り」というイメージではなく、
祀るという意味の「祭り」であり、けれど、
霊をお慰めするというのともちょっと違うなあという印象を持ちました。

不思議な「祀り」です。
その様子を式次第に沿って次ページ以降挙げていきますので、
まずは、写真でご覧いただこうと思いまする。

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